1. 登注連おろし(1)
  2. 登注連おろし(2)
  3. お祭りと歌 その1
  4. お祭りと歌 その2(チョロリ稲荷の白ぎつね)
  5. 素鵞熊野神社の御祭神 -牛頭天王ごずてんのう様から須佐之男命すさのおのみことへ-
  6. 潮来祇園祭禮大幟旗について
  7. 潮来節いたこぶしと祭りポスター
  8. 「山車」の生まれどころ
  9. 山車扁額だしへんがく
  10. 拍子木「チャキ」

1.登注連おろし(1)

潮来祇園祭禮の神社側の準備の一つに「登注連おろし」があります。「登注連」は、“とうじめ”と読みます。「登注連下」とも書きます。祭禮にあたり素鵞熊野神社の神域となる東西南北の出入口、すなわち他町村との境界線となる位置(通常一般道路)に四本の紙垂が付けられた注連縄を張ることです。注連縄は結界となり祭り当日の神域を示します。祭禮の中日から数えて7日前に執行されます。「登注連おろし」の登は遠であり、本殿から空間的に離れた場所を示す言葉です。注連は注連縄の略形です。おろしは下ろしであり、新しくすることであり、引くことであり、張ることを意味します。

西側の出入口は、西町区が責任者となり行ないます。これに素鵞熊野神社の地区氏子総代と区長、副区長、若連頭等が参加します。宮司が神々に祭禮の安全と晴天、氏子と神々の繁栄、悪霊防除を祈ります。祭壇には若連頭のチャキ(拍子木)が置かれます。祭儀が終わりますとお神酒を頂き直会なおらいとなります。この祭儀は素鵞熊野神社側の主催行事であり関係費用も神社側の負担です。

2.登注連おろし(2)

「登注連おろし」は、素鵞熊野神社の西端の区域(神域)では旧潮来町と旧牛堀町の境に張られています。このことは、私たちに突然にと申し上げてよろしいと思いますが、町境や集落の境を意識させます。私たちは集落の境を土塁や塀、垣根等で囲うことはしておりません。普段においては、その境を表示するものはほとんど無いに等しいところがありますが、しかし厳然として「境」はあります。行政区割としての境ではなく、歴史的に地域の人々が割りとって作り上げた世界を守るための境です。すなわち地域の人々がここまでが皆で作っている自分たちの世界だと意識する「境」です。そのひとつが「登注連おろし」をする場所です。この町境は線では無く点です。通常、他地区と大きな道路でむすばれる所、すなわち結節点となる2箇所から4箇所程度が選ばれています。結節点となる境において、外から訪れる危険な存在である悪霊の侵入を阻止しようとします。ここでの登注連おろし、すなわち注連縄は、になった藁縄の中央に紙垂と垂れ縄(藁)を吊るしています。これが無ければただの綱になってしまいます。登注連おろしの様に、町境の道路を横断する形で綱を張り、その中央部に御幣等を吊るして道を区切る事を民俗学では一般に「道切り」と言っています。道切りは、村(地区、町)の中に悪霊が入ってこない様に、村(地区、町)の境に村を守るための標を置くことを言います。昔は村の外や単に隣村があるというだけではなく、悪霊等が住む世界でもありました。特に悪霊や疫病神は道を伝わって来ると考えて、村(地区、町)の境となる道路に標を置いて悪霊防除、村内安全を祈願しました。道切りには、綱を張る形と藁蛇・人形を置く形等があります。綱を張ることを勧請縄や勧請吊りと表現する市町村もあります。道切りは、本来の意味の外に子孫繁栄や五穀豊穣を期待する信仰が加わったりもしています。道切り以外の方法には、道祖神や地蔵を置くところもあります。一般の道切りは一年間置かれますが、「登注連おろし」は祭禮期間中のみ町境に置かれます。この点が一般の道切りと大きく異なっています。しかしその願う趣旨は宮司の祝詞を聞く限り全く同一です。「登注連おろし」が張られる「町境」は、祇園祭典実施規則第9条に次の様に定められています。「西壱丁目及び七軒町の折返について年番町山車を先頭に各山車は休憩位置を出発、町境迄行動し折返す。」町境は山車が折返す地点でもあります。

3.お祭りと歌 その1

潮来祇園祭禮は御囃子に合わせて、数多くの歌と地区ごとに踊りが披露される。その歴史は古い。潮来は、香取神宮と鹿島神宮をつなぐ街道の中間に有り、霞ヶ浦から流れ出る北利根川の東北岸に沿う港津で、特に江戸時代には香取・鹿島・息栖三社詣での船客の足溜りとして、また利根川航行の船舶の寄港地として、水郷の中心地として栄え、潮来節やあやめ踊りに絃歌さんざめく歓楽郷として知られた所である。その面影の一つが、次の替え歌「あんば」の中にあります。

  1. きたきた 三河の平八郎 戦国最強トンボ切り
    ア- ヨイヤサー ヨーオーイ ヨーイヤサー
  2. きたきた 浜町の白ギツネ お客をだまして金を取る
    ア- ヨイヤサー ヨーオーイ ヨーイヤサー
  3. さっさと 潮来のさざれ石 日本酒飲みのみ稲荷山
    ア- ヨイヤサー ヨーオーイ ヨーイヤサー
  4. そらそら 牧野の馬鹿えびす おたまに死なれて血の涙
    ア- ヨイヤサー ヨーオーイ ヨーイヤサー

答えは「2.きたきた 浜町の白ギツネ お客をだまして金を取る」です。絃歌さんざめく歓楽郷として栄えた潮来の歴史が歌い込まれています。このことは、昔ばなし「チョロリ稲荷の白ぎつね」にも伝えられています。豆知識2.を参照して下さい。「1番目は大塚野区の山車人形の本多平八郎忠勝のことです。地区により異なります。

4.お祭りと歌 その2

前項(お祭りと歌 その1)で紹介する御囃子の一部(2番歌詞)の中の「きたきた 浜町の白ギツネ」に関する昔話を紹介します。チョロリを漢字表記しますと「潮浪里」です。

チョロリ稲荷の白ぎつね

むかしむかしのこと

八代と潮来の境にチョロリ稲荷というのがあった。このお稲荷さんはもうずっと昔からそこにまつられていた。

いまではにぎやかな町並みの中に立派にまつられているが、そのころは村はずれの淋し森の中にあった。そのころ、潮来の里には、遊郭もたち並び、港は出船入船でにぎわっていて、夜もたくさんの人が集まってきていた。遠く八代の村にも、毎夜お祭のような笛太鼓の音がかすかにきこえてきたりしたものだった。八代の村の中には、その音曲に引き寄せられるかのように、潮来の夜の町へ遊びに行くものもいた。

八代の利三郎と静六は、村でもなだいのほうとう者で、ひまさえあれば夜の潮来へと通っていた。その日も利三郎と静六は潮来の料理屋ですっからかんになるまでいつづけ、金がないとなると、金の切れ目は縁の切れ目とばかり、ポイとおもてへほうりなげられてしまった。

利三郎と静六は悪たいをつき、ほろ酔い気分も手伝って、夜中なのに村へ帰ることにした。八代と潮来をつなぐ道は稲荷の森を通っていた。この稲荷の森は、昼でもうすぐらく、家もなく淋しいところだった。利三郎と静六は稲荷の森のあたりに来ると、酔いもさめてきて、月あかりにみえる森をみると、なんとなく夜中に帰ってきたことを後悔しはじめ、酔いざめの寒さとともに、足のひざ小僧がカタカタするようになってきた。

「利、利三郎、な、なんだかおっかねえな」

「や、やい、せ、静六、お、おめえ、おっかながっていんのが」

「そ、そうでねえが、お、おいはぎでも出んでねえかと思ってよ」

「ばか、おいはぎが出たって、とられるものなんかあんめえよ」

「そ、そしたら、ゆ、ゆうれいでも・・・」

「ゆ、ゆうれい、ひ、ひとをおどかすようなこと言うでねえ」

二人はゾゾッとしてきて、おっかなびっくり歩いていた。

「ヒェー」

二人は飛び上がらんばかりにおどろいた。

「もし、お二人さん、ああ、びっくりした。なにをおどろいているんですよ」

「な、なんだ女でねえけ」

「な、なんだ、おめえは」

「まあ、よかった。私も心細くて怖くってこまっていたんですよ。私は芸者のおこんと言うんだけど、後生だから潮来まで送っておくれよ」

利三郎と静六は、ふるえながらも、この女がゆうれいでもなく、おいはぎでもなかったのでほっとしながらも、そのおこんさんを送っていくことになった。

おこんさんを送ることにして、いまきた道を引き返しはじめたが、行けども行けども森の中。やっと一軒家のあかりがみえてきた。どうやらこうやらその家にたどりつくと、「どうもすみませんでしたねえ。どうぞあがってお茶でもいっぱいやっていって下さいな」といわれて二人は、もう一度稲荷の森を帰るのは心細いし、これ幸いとばかり、おこんさんの家にあがりこんだ。

こんなところに家があったっけかな、と思ってはみたものの、お茶がお酒にかわり、一杯二杯とやっているうちに、いい気持ちになってしまった。いつものくせで飲めやうたえの大さわぎ「お風呂をどうぞ」と言うんで「飲みながらいっぱいやっぺやあ」とお風呂につかりながら酒盛りをしていた。

突然、冷たい水をぶっかけられた利三郎と静六。はっとしてまわりを見廻すと、まわりには見覚えのある大勢の村人が笑いころげていた。太陽はもう南の空にのぼり、早春のどろ田の中で、二人は腰までつかりながら、いまのいままでさわいでいたのだ。

「あれれ、あの女は」

「おこんさん」

と泣きべそをかきながら呼ぶと、集まっていた人びとはどっと笑いころげる。

「利さぶ、せえ、お前らなにしてんだ」

「きつねにだまされたんだっぺえ」

わあっと笑いころげる人びとの間をほうほうの態でにげだした二人。

もう二度と夜の潮来に遊びに行くこともなく、二人はまじめに働きだしたそうだ。

村人たちは、この稲荷にあぶらげをささげ、化かさないようにお願いするようになった。

きたきた  潮来の白ぎつね  お客をだまして  泥をこね

いつまでもいつまでも語りぐさになったとのことだ。

※本文にある「八代(やしろ)の村」は「八代村」です。昭和30年(1955年)に香澄村と合併し牛堀町となりました。現在の上戸地区、島須地区です。牛堀町は平成13年に潮来町と合併し潮来市の一部となりました。

※チョロリ(潮浪里)稲荷神社は、昭和35年国道51号の開通に合わせて、稲荷山の一角から上戸川公民館の隣に移転しました。

(出典:大塚野区のあゆみ

5.素鵞熊野神社の御祭神 -牛頭天王ごずてんのう様から須佐之男命すさのおのみことへ-

素鵞熊野神社は、明治10年(1877)に素鵞社と熊野社が合名して素鵞熊野神社と改称しました。素鵞社の前は、文治ぶんじ4年(1185)から、天保14年(1843)までの約660年間は牛頭天王社です。その後、天保14年12月に出されました水戸藩の神仏分離の令により、牛頭天王社は素鵞社と改称しました。この時、御祭神も仏教の牛頭天王から神道の須佐之男命に改めています。現在、日本の牛頭天王社の宗社は、京都市東山区祇園町に鎮座します八坂神社です。昔は祇園社、感神院、祇園天神、牛頭天王社などとも呼ばれ、疫病退散や邪気祓いに効験があるとされていましたが、明治初年(1868年)に神仏分離令により、仏教色を廃して御祭神をも牛頭天王から素戔嗚尊に改め、古来の地名から現在の八坂神社と改称しています。同時に全国の祇園社や牛頭天王社も社名を八坂神社に、祭神を素戔嗚尊に統一しています。

御祭神を牛頭天王から素戔嗚尊に改め、と書きましたが、牛頭天王という仏様が素戔嗚尊すさのおのみことという神様と習合したと考えることが出来ます。八坂神社の御祭神素戔嗚尊はイコール牛頭天王です。全国に素戔嗚尊を祀る神社は約9千社ほどありますが、その多くは明治の神仏分離令まで基本的には牛頭天王社と呼ばれ「天王さん」と親しまれていました。私達の護持する牛頭天王社が、素鵞社に改称されられても、私たちは歴史にならい天王さん、天王様、天王様の御神幸と親しんでいます。ここに歴史に培われてきた言葉のすばらしさがあります。

6.潮来祇園祭禮大幟旗について

大空高くそびえる大幟旗の役目は、祭りを知らせる為の目印でもあり、神様が降り立たれる「依り代」とも考えられている。

現在、潮来祇園祭禮で見られる大幟旗は、一対で立てられているのが、仮宮前、下壹丁目、三丁目、六丁目、十番区の五か所。一本で立てられているのは、二丁目、四丁目、五丁目、七丁目、八丁目の五か所である。昔は、全丁内が一対で立てていた。

その制作年代は、古い幟旗では、享和、安政、文政と言った江戸後期のものが九本、明治のものが四本、昭和のものが四本、平成のものが一本となっている。

揮毫者も、地元の宮本茶村を始め、総北の窪木清淵、幕末三筆の一人、市河米庵の書も見られる。

残念ながら、幟旗は有るものの立地の関係で、西壹丁目、浜壹丁目、上壹丁目の三丁内は立てられていない。

潮来祇園祭禮に於いて、素鵞熊野神社に大幟旗を立てることは他地区と同様であるが、潮来の特色は、上記の通り地区毎にも立てられることである。

7.潮来節いたこぶしと祭りポスター

潮来祇園祭禮のポスターには,「潮来節」と書かれた歌謡が左上側にあります。

この歌謡は甚句形式の「7.7.7.5」の音数律に従う26文字の定型詩です。通説は,『潮来節は,香取・鹿島参詣で賑わった常陸国の水郷潮来を起点とし,江戸の遊里で流行をみせ,その後全国的に伝播した流行歌謡であった。流行の始発時期は宝暦年間(1751~1764)頃で,元歌は「いたこ出島の 真菰の中に あやめ咲くとは しほらしや」と考えられる』と述べています。基本は男女の情愛を歌うものです。「7.7.7.5」の26文字でひとつの歌謡となり,現在2千曲余りが記録されています。祭禮ポスターに250年前から続く歌謡が掲載される例は,潮来祇園祭禮以外にその例を見出すことは,甚だ困難です。

最近では,伝統の歌謡ばかりではなく,新しい潮来節も掲載されています。

伝統の潮来節

  • 恋にがれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす平成26年
  • 縁と時節を待とは云えど 時節ばかりか片時も平成28年

新しい潮来節

  • 水面みなも鏡に天空そびえ 祭り知らせる大幟おおのぼり平成25年
  • 潮来出島のあやめの街で 街衆総出の賑やかし平成29年

8.「山車」の生まれどころ

今日全国を俯瞰すれば,各地域に個性あふれる〇〇型山車文化圏が形成されています。関東一円に広がる山車文化の根底には,江戸型山車と特定される基本様式があります。潮来祇園祭禮で使用する山車様式「佐原型」もその一つです。

佐原囃子や佐原型山車は江戸時代,潮来・佐原が利根川の水運により江戸と直結することにより利根川水運を利用した活発な事業活動を展開して財を成し,さらには北関東有数の商業都市に育て上げ,自らも江戸文化に大きな影響を受けた「本町人ほんちょうにん」と呼ばれた旦那衆のまさに町人文化の結晶です。利根川水運の繁栄は文化の栄えでもありました。潮来や佐原の祭りはこの流れで形成されたものです。経済的な発展は祭りの盛行でもあります。特に元禄―享保期以降の庶民層の需要の拡大とともに諸商品の集荷・販売網の成立が賑わいをもたらしている様子です。潮来・佐原の山車を中心とする祭禮の賑わいも,町人文化の興隆期と言われる元禄―享保期にはじまる様子です。佐原の本町人達は江戸という巨大都市に花開く文化を,多いに江戸文化の担い手の力を借りながらも,今日,佐原型山車文化圏と呼ぶ事の出来る独自の佐原囃子を,佐原型山車を,山車曳きの美学を,都市の賑わいと地域社会の共同を生み出して来ました。しかし,今日に至る変遷過程の実像は現在の処,その表層しか明らかになっていません。

江戸東京博物館では江戸の文化が,特に祭禮行事が地方に伝播した内容をコーナーを設けて紹介しています。特に潮来・佐原の祭禮の様子がビデオで紹介されています。祭禮の伝播はそれを担う人々の集まる組織の成立を促しています。「町内会」もその一例です。それは共同の自治による自立的な成り立ちです。

9.山車扁額だしへんがく

山車の正面上部の大天井の前に山車扁額あるいは山車額と言われるものがあります。山車扁額の一番大きな役割は山車の正面がどこにあるかを示すことです。佐原型山車は,飾り物をすべて取り払い本体だけを見ますと前後が全く分かりません。前後の無い構造であることが良く分かります。前後は山車扁額や玉すだれ,蕨手わらびてなどで設けます。人形の向きなどでも区分を作ります。なお,年代は不明ですが前後の無い構造であるため必要に応じて引き綱を付け替えて前にも後ろにも曳いたこともあるようです。また,佐原市下川岸したがし区の山車の様に「四方正面八方にらみ」と言ってどこから見ても同じ様に見える山車もありますが,山車扁額等が無ければ正面が分かりません。

潮来の山車扁額は神に捧げる言葉,神徳をたたえる2文字を基本として書かれています。濱壹丁目の「雍熙ようき」は和楽のこと。神の恵みを受けてやわらぎ楽しむ様です。下壹丁目の「豊楽」は万民豊楽です。上壹丁目,七軒町の「豊穣」は地味豊穣です。豊かな大地の恵みを神に祈ります。四丁目の「素鵞街」は「ここは素鵞社そがしやまちである」という意味です。素鵞社は現在の天王山てんのうやまに遷宮する前は,四丁目の天王河岸側の現在の御仮殿辺りに約500年間に渡り祀られていました。六丁目の「雲龍」の龍は神様の別名です。雲を起こして雨をよび大地に恵みをもたらす神です。七丁目の「為徳とくをなす」はよい行ないをすることです。八丁目の「生祥せいしょう」は神と共によりよい暮らしを営むことです。あやめ二丁目の「作芳ながらかんばし」は神の恵みを受けてよりよい暮らしを作ることです。全部が基本的に2文字からなる神徳をたたえ神徳の恵みを祈る言葉です。「地区名称」を書いた地区名称扁額はありません。人形名称の扁額もありません。

10.拍子木「チャキ」

若連頭のみが持つ拍子木があります。仲間内では「チャキ」とも呼んでいます。若連頭はこの拍子木を打ち合わせる回数で山車の運行,止まる,出発,回れ等を指示します。拍子木は美しい紐で結ばれています。若連頭のみが持つ拍子木の大きさは1辺約6cm角×長さ約50cmです。主に樫の木や桜の木で製作されています。歌舞伎でも拍子木が使用されます。歌舞伎の拍子木は4面の内1面が蒲鉾型の曲面となっています。2つの曲面と曲面を打ち合わせて音を出しています。曲面と曲面が打ち合わさる部分は事実上「点」となる部分です。ここが打ち合わさり音が出ます。点の部分から音が出るため,その音は,とても清んだ気持ち良い高音です。波が広がるように広がります。若連頭が打ち合わせる拍子木の音は,面と面が打ち合わさり音が出ます。その音はややつぶれた様な高音です。この拍子木を歌舞伎用語を真似て「ツケ」と言う方もいます。拍子木を打ち合わせることを「が入る」とも表現します。「柝」は拍子木のことです。歌舞伎の用語です。

※「チャキ」について 拍子木をチャキと呼ぶ例は全国にあります。何故,チャキと言うのでしょうか。チャキとは「拍子木の音を表わす語」(日本国語大辞典)です。拍子木の発する音が,その物の名前に転化したと考えることが出来る例です。今日,チャキは拍子木の俗語となっています。その物が発する音が,その物の呼び名になる例は,身近な所では幼児語に見られます。ぶーぶーは自動車です。ごろごろ様は雷様です。(擬音語・擬態語辞典 角川書店) チャリンコは自転車です。チャリンは自転車のベルの音です。